STORY#02

政策と気候と
農業の歴史

もち米団地

北海道はもち米の一大産地です。

せんごく農園を含む士別市一帯の地域も「もち米団地」を結成して、もち米の安定した作付けが行われています。

地域内にはもち米専用のライスセンター(乾燥調整設備)も完備され、毎年質の高いもち米が出荷されています。

今でこそ、安定したもち米栽培ができるようになりましたが、農業というものは今も昔も政策や気候に翻弄されやすい産業でした。

現在のようにもち米栽培が安定するに至るまでは、数々の紆余曲折がありました。

コメの生産調整
はじまる

もち米団地

かつてこの地域でも、わたしたちが主食とする「うるち米」を主体とした栽培が行われていました。

国の政策により、農地を広げ、品種改良を行い、コメは増産され続けていました。

その一方で、食の欧米化に伴い、コメの消費量も年々落ち込んでいくことに。

全量買取を基本としていた国は、慢性的にコメの在庫を抱えることとなり、1969(昭和44)年、一定割合の稲の作付けを休止する「生産調整」が言い渡される事となりました。

これにより、コメは他の作物へ「転作」せざるを得ない状況になり、全国的な「減反」政策がはじまったのです。

もともと、北海道は低温や冷害、早霜などの厳しい気候条件の中でコメ作りをしていました。

それに加え、長雨や日照不足などの悪条件が重なる年もあり、常に不安定な気象条件下で米作りを行っていました。

決して栽培適地とは言い難い北海道のコメは、品質、食味ともに評価が低く、コメの消費量減も相まって、人気のないものになっていきました。

そのため、北海道のコメの減反率は全国平均を遥かに上回り、40%以上の減反率を課せらることになりました。

当初は「一時的な政策だろう」と農家の間で楽観視されていたコメの生産調整。

しかし、栽培技術向上などによるコメの増産、食の欧米化はさらに加速し、コメは慢性的に過剰な状態が続きました。

その後も「水田利用再編対策事業等」の名称で、継続的な生産調整を強いられることとなったのです。

もち米団地で
起死回生

北海道もち米

コメを栽培する土地も技術もあるのに、コメを栽培できない。

「このままではいけない」と、地域一丸となって立ち上がったのが、1981(昭和56)年のことでした。

「うるち米」ではなく「もち米」栽培に特化することで、上質なもち米の作付けを目指す「もち米団地」化に向けて動き出しました。

もち米はうるち米を改良して誕生した品種で、もち米にうるち米の花粉がつくと、粘り気が弱くなるなど、もち米としての品質が落ちてしまいます。

また、うるち米ともち米両方の栽培を行うと、お互いの混入を避けるため、収穫や乾燥に使用する機械もその都度丁寧に清掃する必要がありました。

そのため、うるち米を主体とする地域でのもち米栽培は敬遠されがちでした。

そこに着目し、不屈の精神で立ち上がった農家たち。

努力が実り、その3年後には全農より「もち米団地」の指定を受け、もち米の品質向上と収量の確保に尽力することとなりました。

その後、地域内にはもち米専用のライスセンター(乾燥調整設備)が新築され、もち米団地としての地位を確保。

もち米の作付面積や収量も増加し、これまで1等米といった上級米を出荷し続けてきました。

こうして、士別市はもち米の一大産地となったのです。